マクロ経済

金融政策という芸術

金融政策に芸術的要素が戻り、科学が犠牲になりつつある。

経済学はモデルを基に考えるという点で思想の科学であるが、現代社会との関連でどのモデルを選択するかという芸術との組み合わせになる。これは止むをえない。というのは一般的な自然科学と違って、経済学が適用される材料は、あまりに多くの点で時間の経過と共に変化するからだ。

ジョン・メイナード・ケインズのロイ・ハロッドへの書簡、1938年7月4日

20年近く前、リチャード・クラリダ、ジョルディ・ガリ、マーク・ガートラーは、経済論文誌に「金融政策の科学:ニュー・ケインジアンの視点」と題する画期的な論文を発表しました。すると、金融経済を学ぶ学生や意欲的な中央銀行関係者の間で瞬く間に評判を呼び、必読文献となりました。3人は、過去20年あまりにわたって世界各国の多くの中央銀行が活用してきたインフレ目標と金利のルールを分析するための、理論的なマクロ経済の枠組みをまとめました。

伝統的に金融政策は、銀行家によって実践される芸術に近いもの(時に陰鬱な芸術)と見なされていましたが、科学的なアプローチが次第に影響力を増していき、ベン・バーナンキ氏やジャネット・イエレン氏ら有力な学者が米連邦準備制度理事会(FRB)の舵取り役になることで、その影響力は最高潮に達しました。しかしながら、好むと好まざるとにかかわらず、金融政策に芸術が戻りつつあり、一部で科学が犠牲になっていると言えます。その理由をご説明しましょう。

第1に、標準的なニュー・ケインジアン・モデルで想定されている金融政策の手段は、名目金利だけです。中央銀行のバランスシートやクレジットやマネーの総量といった量的政策の出番はありません。しかしながら、世界的金融危機以降、各国中央銀行は、金融政策の追加的手段として、自らのバランスシートの拡大を多用してきました。(具体的には、ソブリン債をはじめとする債券の大量買い入れなど、いわゆる量的緩和策(QE)ですが)、これを標準モデルに組み入れるのは容易ではありません。このためバーナンキ元FRB議長が2014年、「QEの問題は、現実には効果があるのに、理論上はうまくいかないこと」と発言したのは有名です。

QEの有効性については、エコノミストの間で一定の合意ができているものの、正確にどのような仕組みで効果を発揮するのかについては、深刻な疑問が残っています。エコノミストがQEの仕組みの説明やモデル化に自信が持てない中で、自らのバランスシートを活用している中央銀行には、量的緩和や引き締めの量を調整するにあたり、芸術ともいうべきスキルが必要になります。

第2に、ニュー・ケインジアン・モデルの柱の1つは、失業率とインフレの関係、いわゆるフィリップス曲線です。フィリップス曲線では、失業率の低下がインフレ率の上昇につながると想定されています。しかしながら、経験的に、この関係は近年弱まっており(フィリップス曲線は平坦化しており)、その理由についてはエコノミストの間で論争が続いています。生産性の伸びの低下や、人口動態の変化、隠れた労働市場のスラック(緩み)、あるいは最近のジャクソンホールの講演でアラン・クルーガー氏が言及したように、企業の集中と結託による雇用主の買い手独占を背景にした労働者の賃金交渉力の低下など、様々な理由が挙げられていますが、主因が何であれ、フィリップス曲線が平坦化したことで、中央銀行による物価の舵取りが大幅に複雑になったのは間違いありません。

第3に、ニュー・ケインジアン・モデルにおいて、名目金利の変化が有効なのは、物価がゆっくりとしか変化しない、つまり物価に「粘着性」があると想定されているからです。しかしながら、やはりジャクソンホール会議のアルベルト・カバロの論文で示されたように、アマゾンの台頭、広い意味では電子商取引の台頭によって、小売業者が価格を頻繁に調整するようになり、物価は以前ほど粘着的でなくなっています。ニュー・ケインジアン・モデルの論理では、物価が柔軟になると、名目金利の任意の変化が実体経済に与える影響は小さくなります。

第4に、これもカバロの論文で主張されていることですが、電子商取引の成長で、小売業者はコスト変化を素早くオンライン価格に反映させることから、燃料価格や為替などコスト要因の変化が消費者価格に転嫁されやすくなっています。物価が中央銀行のコントロールの及ばない短期的要因によって動きやすくなることから、特に短期で中央銀行が物価を管理する能力は低下することになります。だとすると、中央銀行が短期で物価を管理したいのであれば、より頻繁に金利を調整する必要があり、頻繁に調整しないのであれば、物価が目標から大きくかつ頻繁に逸脱するのを容認せざるをえないことになりますが、それにより中央銀行の信認は低下する可能性があります。

第5に、ジェローム・パウエルFRB議長はジャクソンホール会議の講演の冒頭でかなり踏み込んで、中央銀行が指針としてきた、標準的モデルの主要変数である「スター」の真の水準については不確実性が大きいことを強調しました。スターとは、中立金利(rスター)、自然失業率(uスター)、潜在成長率(yスター)等を指します。パウエル議長自身の言葉を借りれば、「実際にスターを政策の指針とすることは、……最近かなり困難になっています。最善の推計値でも、スターの水準は大きく変化しているからです」

枠組みの再検証

要約すると、量的緩和策の出現と経済の重要な構造変化によって、政策当局にとって金融政策の伝統的な科学の有用性はいくぶん低下していると言えます。「スター」の正確な水準の不確かさなど、前述の課題は、変数の不確かさにはつながりますが、枠組み自体を疑問視させるものではありません。とはいえ、物価が変動しやすくなったり、フィリップス曲線が完全に平坦になりつつあるといったその他の課題は、モデルの枠組みの有効性自体に疑問を投げかけるものです。

確かに、金融政策の科学は進化しており、主流のモデルを改良したり、新たな枠組みを考案する方法を積極的に模索しています。しかしながら、当面、金融政策当局は、モデルや単純な政策ルールに頼ることを(止めざるをえず)、より「職人芸的」に、経済や金融のシグナルを読み、対応していくことになるでしょう。言い換えると、金融政策は(マーヴィン・キング元英中央銀行総裁の皮肉な発言を彷彿とさせる)「退屈」なものでなくなり、さらに、アートについて深い理解がない場合は、予測しにくいものになるでしょう。これはボラティリティの上昇に備えるべき、もう一つの理由です。

本稿は2018年8月26日にサンデー・サインポストで配信されました。

著者

Joachim Fels

グローバル 経済アドバイザー

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