世界の中央銀行動向

​変化しつつあるユーロ圏のインフレ・ダイナミクス

ECBのマリオ・ドラギ総裁は、10月の理事会で、資産買い入れ額の増額と、現行-0.2%の預金金利の引き下げの可能性が議論されたことを示唆しました。
資産買い入れは、外生的にベース・マネーの量を増やすことになるため、ユーロ圏の銀行および一部の非銀行系金融機関は、結局のところベース・マネーあるいはその代替物を保有し続ける以外に選択肢はなく、ECBが同時に余剰資金の金利をマイナスにしたとしても、ほとんど意味がないと考えられます。
投資家にとっては、インフレ・ダイナミクスの変化とそれに対するECBの対応で、イールドカーブは低水準かつスティープな状態に保たれ、この政策による過剰流動性は高利回りの社債や周縁国の国債および株式に向かうと予想されます。

ECBの設立以来、歴代総裁は、加盟国の財政当局に構造改革を断行する責任を想起させる場として、理事会後の記者会見を活用してきました。一般に、政府の運営について行政府に助言するのは、独立した中央銀行の役割ではありませんが、財政政策と構造改革、金融政策が相乗効果を発揮すべきときには、必要であると考えられます。

欧州のソブリン債務危機が発生する前は、ユーロ圏の政府のほとんどは改革に消極的でした。しかし、ギリシャ、アイルランド、ポルトガルが市場アクセスを失うに至って、ようやく状況は変化し、これら三カ国には、構造改革の実行を条件に公的部門のブリッジローンが実施されました。この市場アクセスを失うことへの脅威が、スペインとイタリアに財政および構造改革に本腰を入れさせるきっかけにもなりました。

これらの国の労働市場および製品市場の構造改革によって名目価格の硬直性は緩和される一方、財政引き締めによって景気は減速しました。労働および製品市場における価格設定の摩擦の減少と財政プルーデンスという、この組み合わせは、逆説的にインフレ目標の達成というECBの任務を一段と難しくしています。直観的にもわかるとおり、市場の効率化と、経済のスラックの拡大はインフレ圧力を低下させます。

労働および製品市場の基本的構造が変化し、それゆえ、これらの市場の価格設定方法が変化したことが、ここ数年、ユーロ圏の実際のインフレ率がECBのインフレ予想を一貫して下回っている主因であることはほぼ間違いありません。計量経済学では、これをデータ生成プロセスにおける構造変化と呼んでいます。

インフレ率を予測するモデルとしてよく使われるのがニュー・ケインジアン・フィリップス曲線ですが、この曲線は失業率とインフレ率が逆相関関係にあることを示しています。このモデルでは、インフレ率を、価格粘着性、経済のスラック、インフレ期待、外生的な価格ショックを説明変数とする関数として表します。価格粘着性の指標にはインフレ率の実績値が、経済のスラックの指標としては失業率または需給ギャップが、インフレ期待の指標としては物価連動債など市場ベースの指標やインフレ予想などの統計ベースの指標が、外生的な価格ショックの指標としてはコモディティ価格や通貨の対外価値が使われます。

最近では、特に原油価格を中心とするコモディティ価格の下落と、過去のユーロ高の2つが足元のインフレ率の低下を招いています。インフレ率と原油価格あるいはインフレ率とユーロの関係は引き続き安定していますが、インフレ率と経済のスラックの関係は安定的ではなくなっているとみられます。

欧州のソブリン債務危機と各国政府の危機対応が、インフレ率と経済のスラックとの関係を変化させたことで、インフレ率が予測を下回るようになったとみられます。したがって、将来に目を向けると、こうした関係の変化を踏まえてインフレ予想を慎重に扱う必要があります。

その理由を明らかにするために、1996年から2008年の世界的な金融危機の前までと、それ以降の期間について、インフレ率とその説明変数の関係を見ていきます。

経済のスラック
インフレ率と経済のスラックの関係の変化は図表1で確認できます。この図では、横軸に需給ギャップを、縦軸に消費者物価指数(CPI)のコア指数をとっています。1996年から2008年にかけて、実際の経済成長率と潜在成長率の差を捉えた需給ギャップとインフレ率の間には、ほとんど相関性がみられませんでした。実際の成長率が潜在成長率を下回っている場合、需給ギャップはマイナスとなり、経済には余剰能力が存在しますが、当時、経済の余剰とインフレ率には相関性が見られなかったのです。

しかしながら、2009年以降、この関係は変化しています。現在では、マイナスの需給ギャップがインフレ率の低下につながっています。このように感応度が上昇した要因として、経済のスラックの規模が拡大したこと、構造改革を背景に財および労働等のサービスの価格設定における摩擦が低下したことが挙げられます。

同様の構造変化はフィリップス曲線の傾きにも見られます。ギリシャ、イタリア、ポルトガル、スペインのフィリップス曲線の傾きは、2008年まで概ねプラス(失業率が高いほど、インフレ率も高い!)、あるいはフラットで、図表2に示したように、失業率と、労働コストで測ったインフレ率の間には、ほとんど相関性が見られませんでした。しかしながら、2009年以降、失業率は上昇し、前述の4カ国のフィリップス曲線の傾きはマイナスになり、かつスティープ化しています。失業率が高いほど、労働コストで測ったインフレ率は低下しているのです。

経済において名目価格の硬直性が低下することの利点として、金融政策とインフレ率をつなぐ要のフィリップス曲線の役割が高まることが挙げられます。インフレ率と経済のスラックの感応度が上昇し、価格設定の摩擦が減ることには、2つの影響があります。

(1) インフレ率の低下(上昇)を達成するために必要な失業率の上昇(低下)幅が小さくなります。

(2) 賃金上昇圧力が顕在化し始める失業率の水準を引き下げます。この水準は、NAIRU(インフレ率を加速しない失業率)とも呼ばれます。

これは良い材料です。最近の労働市場改革でNAIRUは低下していると推測されますが、残念ながら、NAIRUも需給ギャップもリアルタイムで計測することはできません。これらはリアルタイムではあくまで推計することしかできませんが、ユーロ圏の失業率が11%、労働コストの上昇率が2%、コア・インフレ率が0.9%、総合インフレ率が-0.1%であることは、リアルタイムで観測することができます(EU統計局、2015年10月現在)。失業率は高く、賃金および消費者物価上昇率が低いことから、NAIRUが低下しているとの議論は支持できますし、需給ギャップのマイナス幅が大きいことも推測できます。

これらを総合すると、ユーロ圏にはインフレ圧力はほとんど存在せず、賃金および消費者物価上昇率が上がり始めるには、その前に失業率が大幅に低下する必要があることを示唆しています。同様の構造変化は、ユーロ圏のコア・インフレ率を使ったフィリップス曲線を示した図表3にも見られます。この図では失業率を横軸に、変動の激しいエネルギーと食品価格を除いたコアCPIを縦軸にしています。現在のところECBは、2017年時点で失業率が10.1%に低下すると想定しており、ユーロやコモディティ価格の想定と併せて、インフレ率は2017年までに1.7%に上昇すると予想しています。

しかしながら、この予想は楽観的過ぎるとPIMCOではみています。2009年以降を見てみると、フィリップス曲線の傾きはマイナスですが(南欧では傾きが一段ときつくなっている)、NAIRUは低下している可能性が高く、高失業率・低インフレ率の状態が出発点となる点を勘案すると、2017年時点でのインフレ率が1.7%になるとの予想は甚だ疑問です。

図表3に示されたフィリップス曲線の関係に基づくと、インフレ率が1.7%に上昇するには、失業率が8%近くまで低下しなくてはなりません。この点については、10月16日のブログの投稿「インフレを探して」(英語版のみ)でも指摘しました。逆にECBの想定どおり、失業率が2017年時点で10%になるとすれば、フィリップス曲線の関係から示唆されるインフレ率はもっと低く、1%から1.5%のレンジのどこかに落ち着くものとみられます。

予想インフレ率の低下から、一段の金融緩和へ
ECBがインフレ率を目標水準に近づけるには、現行の金融政策をより景気刺激的なものにし、一段と緩和する必要があるとPIMCOではみています。ECB理事会は、EU統計局による現行のインフレ予想は「下方リスク」があると9月に指摘しましたが、PIMCOも同様の懸念を抱いています。したがって、来る12月の理事会では、2017年の予想インフレ率を1.5%と一段と引き下げるものとみています。

ユーロ圏のインフレ率は2013年以降、ECBの目標水準を下回っており、低下を続けています。インフレ率が(2016年、2017年と)あと2年も目標を下回るとECBが予想するとすれば、日本のように、目標を大幅に下回るインフレ期待が定着するというリスクを冒すことになります。こうしたシナリオを回避するには、ECBはインフレ率が目標水準に戻り、予想を達成することができるという信頼を勝ち得る必要があり、それには追加の刺激策で補強する必要があるとみられます。

ECBは12月3日の理事会で、追加の刺激策を発表し、月間の資産買い入れ額を現行の600億ユーロから700~800億ユーロに拡大する形をとるものとみています。追加緩和の実施が遅れるほど、現行で2016年9月としている資産買い入れの期限を延長せざるをえない可能性が高まります。

ECBのマリオ・ドラギ総裁は、現行で-0.2%の預金金利を引き下げる可能性を今月の理事会で議論したことを示唆しました。資産買い入れは外生的にベース・マネーの量を増やすことになるため、ユーロ圏の銀行および一部の非銀行系金融機関は、結局、ベース・マネーとその代替物を保有し続ける以外に選択肢はなく、それゆえECBが同時に余剰資金の金利をマイナスにしてもほとんど意味がないと考えられます。

ベース・マネーとその代替物については、規制等の影響で、需要の大半が価格非弾力的であるとみられます。そのため、政策金利を-0.2%よりも引き下げたとしても、ベース・マネーの流通量は期待したほど上昇せず、逆にマネー・マーケットが機能不全に陥るリスクを顕在化させる恐れがあります。仮にECBが追加利下げを実施するとすれば、象徴的な小幅の利下げが理に叶っているとみています。たとえば、すべての政策金利を5ベーシス・ポイント引き下げ、主要借り換え金利を0%、預金金利と限界貸出金利を、それぞれ-0.25%、0.25%として、主要借り換え金利とシンメトリーにすることが考えられます。

ユーロ圏におけるインフレ・ダイナミクスの変化と、それに対するECBの対応によって、利回り曲線は低水準かつスティープな状態が続いています。この政策による過剰流動性は高利回り社債や周縁国の国債や株式に向かうと予想され、現時点で年間3,000億ユーロにのぼる経常黒字がもたらす構造的なユーロ高要因を緩和することになります。

日本が経験したデフレをユーロ圏が回避するには、金融刺激策は必要ですが、切れ味が鈍いツールに過ぎず、おそらく不十分だとみられます。ドラギ総裁の財政上のパートナー達が、中央銀行の助言に従うだけでなく、それ以上に長期の成長率を持続的に高める努力をすることが助けになると考えられます。

著者

Andrew Bosomworth

ドイツ債券ポートフォリオ・マネジメント統括責任者

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