小関広洋の略歴はこちらをクリックしてください。 サブプライムに端を発した金融危機は深刻度を深め、欧米の政府・当局は既に金融機関への公的サポートを発動していますが、今後その枠組みをさらに拡大・整備する必要があると考えられます。公的サポートの導入にあたっては、日本の不良債権問題・金融危機の経験から学ぶべき教訓も少なくないことから、本稿では日本が1990年代~2000年代初頭にかけて経験した金融危機を振り返り、現在の米国の金融危機との共通点、相違点を整理した上で、政策対応におけるインプリケーションについて考えてみたいと思います。
第1章 日本の金融危機の経緯
日本の金融危機-4つの局面
まず、日本の金融危機の経緯を概観しておきましょう。日本の不良債権問題は、1991年のバブル崩壊から2004年頃まで約14年間続きましたが、その間金融市場の情勢と危機の中身にはいくつかの変遷がありました。これを大まかに整理すると、次のようになります(図表1)。
危機の背景-過剰流動性で銀行貸出が倍増→商業用不動産バブル
1985年のプラザ合意以降、日本では急速な円高に伴う金融緩和によって過剰流動性が発生、大量の資金が商業用不動産と株式市場に流入しました。銀行貸出金残高は1985年から1990年代前半にかけて倍増、そのほとんどは不動産市場に向かったと考えられます。筆者の推定によると、その内訳は、①商業用不動産への直接・間接的投機(ノンバンク等への貸出を含む)が約40%、②アパート・ローンなど賃貸用不動産を対象とした個人向け貸出が約20%、③非製造業向け貸出(その多くが不動産購入資金にまわったと見られる)が約40%、となっています(図表2)。なお、銀行貸出金残高は1991年のバブル崩壊後も増加していますが、これは銀行が業績不振の貸出先に対する金融支援を行ったことによるものと考えられます。
商業用不動産バブルの崩壊(第1期:1991年~1994年)
1990年代初頭のバブル崩壊によって、日本の国富の半分以上を占めていた土地の価値が約500兆円、株式の時価総額が約300兆円、合計800兆円(GDPの約1.6倍相当)に及ぶ資産価値が失われました(図表3)。
土地資産の保有構造は、およそ法人40%、個人60%となっており、企業・家計双方のバランスシートに大きな傷を与えましたが、不良債権問題は主として商業用不動産に集中していました。商業用ビル建設やゴルフ場開発のため、極めて投機的な土地の取得が広範囲に行われたことが背景にあります。一方、家計部門においては、資産価値下落の影響は大きかったものの、ホーム・エクイティー・ローンなど住宅を担保に消費のための資金を借り入れる制度・習慣が一般的でなかったことから、レバレッジの拡大はそれほど大きくなく、居住用不動産における不良債権の発生は限定的なものに止まりました(図表4)。景気は低迷したものの、終身雇用制の下で雇用が比較的安定していたことも、住宅ローンのデフォルト率があまり増加しなかったことの一因と考えられます。
土地価格下落の長期化で不良債権が急拡大(第2期:1995年~1996年)
1990年から始まった土地価格下落は、1990年代半ばにその趨勢を強めました(図表5)。筆者の推定によると、銀行の不良債権の総額は、バブル崩壊直後の1993年に50兆円程度だったものが、1996年には100兆円近くまで倍増したと見られ、同時に損失率も急上昇しました(図表6)。この結果、金融機関の経営は急速に悪化、1995年には比較的規模の大きい地域金融機関の破綻が続き、金融システム危機の色彩が強まって行きました。
大手銀行の破綻(第3期:1997年~1999年)
1997年11月には大手銀行の一角であった北海道拓殖銀行が破綻、ほぼ時を同じくして大手証券の山一證券が破綻し、金融システム不安が一気に高まりました。さらに1998年になると、日本長期信用銀行(長銀)と日本債券信用銀行(日債銀)が破綻、国有化されるという事態となりました。この時期の銀行破綻事例では、各行とも預貸率が100%を超え、インターバンク市場や債券発行(長期信用銀行の金融債)による資金調達への依存度が高く、短期金融市場や債券市場における資金繰りの行き詰まりが破綻のきっかけでした。
長銀の破綻(1998年10月)に際し、銀行システム保護のための新しい枠組みが整備され、1999年3月には大手行に対して総額7.5兆円の資本注入が行われました。折からのITバブルによる世界的株価上昇や、大手銀行の合併など金融再編が急速に進展したこともあり、1999年前半から2000年前半にかけ危機的状況は一時的に後退しました。
なお、1997年から1999年にかけて海外のインターバンク市場ではいわゆるジャパン・プレミアムが発生し、邦銀のインターバンク市場の調達コストが上昇しましたが(図表7)、国内からのファンディングと資産圧縮によって、結果的には資金ショートによる大きな混乱には至りませんでした。
企業の過剰負債問題による金融危機の再燃(第4期:2000年~2004年)
日本の企業セクターは、1980年後半に積極的な設備投資を行いました。中でも、前述したとおり、非製造業における銀行借入の拡大が顕著な傾向としてあげられます。1990年にバブルが崩壊すると、収益の低迷によって債務の負担が鮮明となり、レバレッジ関連指標の悪化は1990年代後半まで続きました(図表8)。
2000年央にITバブルがはじけ株価が下落を始めると、企業破綻にも大きな変化が見られました。建設・不動産など土地投機を直接担った業種ばかりでなく、非製造業を中心に過剰債務を抱えた企業の破綻が急増したのです(図表9)。景気低迷の長期化による業績の低迷に加え、信用収縮によって資金繰り環境が急速に悪化したことが主因と考えられます。
2003年5月には、りそな銀行が経営危機となり、政府による2兆円の資本注入が行われました。2004年~2005年には、UFJ銀行が大幅な赤字決算となり、後に東京三菱銀行と合併することとなりました。この時期における銀行経営危機の特徴は、資金繰りの問題というより、監査法人や金融当局による資産査定の結果、資本不足あるいは債務超過と認定され、当局による介入(サポート)や他行との合併による生き残りが必要となったということです。このことは、資金繰りによって破綻に追い込まれる以前に、資産の適正評価によるバランスシートの健全性の評価によって必要な行政上の対応を行う、という銀行監督上のプル-デンス政策の進化を示していると言えるでしょう。
主要行の一角を占めるりそな銀行に対する政府のサポートが、優先株による資本注入を主体とする「ソフトな」資本注入によって、結果的に株主をも保護する方式であったことから、折からのマクロ経済環境の改善と相まって、市場心理は劇的に改善し始めました。そして、東京三菱とUFJの合併による日本最大の銀行グループMUFGの誕生(2005年)は、名実ともに日本の金融危機に終止符を打ったのです。
第2章 日本における政策対応の進展
銀行破綻に対する政策的対応・法的枠組みは多くの変遷を経てきましたが、ここでは再度、そのポイントを整理しておきましょう。
「奉加帳方式」や合併・資産譲渡による破綻処理(~1997年)
1998年の長銀・日債銀の国有化以前は、破綻あるいは経営危機に陥った銀行は、当局主導の合併や資産譲渡によって処理されていました。大手金融機関には、中小規模の金融機関を救済する余力が残っており、当局が複数の銀行に対して「奉加帳方式」と呼ばれる損失負担を要請し、その上で合併・資産譲渡が行われたのです。しかしながら、銀行業界全体の体力が弱まる中、1997年の北海道拓殖銀行および山一證券の破綻によって、「奉加帳方式」による民間銀行主体の救済方式は限界に達しました。また日銀特融の金額も拡大したため、金融機関が破綻した場合に日銀が負担するリスクも増大し、「流動性サポートでソルベンシー問題をカバーする」手法も限界に近づいていました。
長銀・日債銀の国有化と大手行への資本注入(1998年~1999年)
こうした状況を受け、政府は金融機能安定化緊急措置法(金融安定化法)を成立させ、これに基づいて1998年3月、当時の大手21行に対し合計1.8兆円の資本注入を行いました。これが第1回の資本注入です。しかし、これは金額も小さく、市場心理の改善にはあまり効果がありませんでした。さらに1998年夏にはロシア危機・LTCM危機によって世界の金融市場が不安定化したこともあって、金融危機モードは再び高まりました。
長銀の経営危機(資金繰りと株価の下落)が深刻度を増し、政府は再び銀行救済の枠組み整備の必要に迫られ、1998年10月には金融再生法、早期健全化法、および改正預金保険法など一連の法整備を行うとともに、金融システム対策として総額60兆円(GDPの12%に相当)の予算措置を講じました。新法が成立すると直ちに長銀が一時国有化され(金融再生法を適用)、続いて12月には日債銀も国有化されました。なお、国有化にあたっては、銀行の債務は全て保護される一方、資産査定の結果債務超過となったため、既存株式の価値はゼロとなりました。
また、新法の成立とあわせ金融行政の見直しが行われ、銀行監督は当時の大蔵省から独立した金融再生委員会(現在は金融庁)が所管することとなりました。金融再生委員会は、早期健全化法に基づき1999年3月に大手15行に対し7.5兆円の資本注入を実施しました。
新しい枠組みの整備とりそな銀行への資本注入(2000年~2004年)
1998年の金融再生法および早期健全化法は時限立法であり、より恒久的な破綻処理の枠組みを整備する必要がありました。そこで2000~2001年にかけて預金保険法の改正など一連の法整備が行われ、今日に至っています。新たな枠組みでは、過去の経験を踏まえ、破綻処理の迅速化、破綻処理の多様化、金融危機への対応の方法などが改めて整理されました。いわば、過去10年間の教訓を踏まえた集大成と言えるでしょう。破綻処理の多様化としては、預金保険法102条において、システミックリスクの程度に応じて3つの類型が整備されました。すなわち、①システム上極めて重要なケースでは資本注入(第1号措置)、②小規模の銀行については特別資金援助による破綻金融機関の全負債の保護(第2号措置)、③システム上重要なケースについては国有化(第3号措置)。そして、こうした対応のための資金的対応として、15兆円の「危機対応勘定」が恒久的な予算措置として手当てされました。2002年後半には「金融再生プログラム(竹中プラン)」による資産査定の厳格化が行われ、銀行の不良債権処理が加速しました。不良債権処理加速の結果、2003年には大手銀行であるりそな銀行が資本不足に陥り、政府は上記の第1号措置(資本注入)を、また地銀大手の足利銀行に対しては第3号措置(国有化)を行い、新しい枠組みによる危機対応策が実施されたのです。
第3章 政策対応に関する論点
なぜ日本では解決に時間がかかったのか?
日本においては、1991年のバブル崩壊から金融危機の終焉まで、約14年の時間が経過しましたが、その理由はおよそ次のように整理できると思います。
なぜ1998年~1999年の資本注入は問題の解決につながらなかったのか?
1998年~1999年の資本注入においては、当局は不良債権による銀行資本の毀損は認識しつつも、多くの大手行は基本的に健全であるとの立場をとっていました。一方で、銀行の貸し渋りが本格化しつつあったことから、貸し渋り対策として資本注入が必要との政策的目的で資本注入を行ったのです。そのため、銀行に対しては、中小企業向け貸出しを増加させることを義務づけるなどの政策目的が掲げられました。これらの資本注入は「予防的資本注入」と位置づけることもできますが、政策目的の焦点が拡散していたため、必ずしも不良債権処理を抜本的に促進するには結びつかなかったと考えられます。
迅速な処理は本当に問題の早期解決につながるか?
政策対応の役割は、①問題の発生後速やかにその本質を理解し、②問題の規模を把握した上で、③必要な対策を講ずるということになります。資産価格底入れのタイミングと金融システム対策の因果関係を明確に示すことは困難ですが、日本の金融危機の教訓としては、少なくとも第1期~第2期における問題の認識の遅れがその後の金融危機を増幅し、第3期における問題の過小評価と試行錯誤のプロセスが解決の遅れにつながったという評価はできると思います。
ゼロ金利・量的緩和政策は効果があったのか?
日本における金融危機の第4期(2000年~2004年)は企業の過剰債務問題だったことは前述しましたが、水面下では企業セクターのファンダメンタルズの改善が急速に進んでいました(図表11)。大企業全体の純債務/EBITDA比率は、1999年の5.3倍から急速に改善し2005年には3.0倍まで低下しました。債務の返済は、主として設備投資の抑制によってなされたと考えられます(図表12)
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この間、支払利息も大きく減少し、支払利息/営業利益の比率は、同期間に42%から15%に低下しています(図表13)。これを有利子負債の減少要因と金利低下要因に分けると、およそ1:2の割合で、金利低下要因の方が大きかったと見られます。このように、金融政策の効果は、金融市場の流動性確保のみでなく、企業収益とバランスシートの改善に大きな役割を果たしたと考えられます。
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第4章 サブプライム危機へのインプリケーション
米国サブプライム危機との比較:不動産バブル崩壊という点は共通だが…ここで、現在の米国におけるサブプライム危機と日本の金融危機を比較してみましょう。サブプライム問題と日本の金融危機は、過剰流動性→バブルという原点は共通するものの、その内容には次のような違いがあると考えられます。
第5章 まとめ
最後に、以上見てきたことを簡単に整理しておきましょう。
個別金融機関の破綻処理の枠組みは必須
金融危機対策としては、金融システム上重要な金融機関に対して、破綻=システミックリスクを回避するための枠組みが必要となります。日本においては、そうした枠組みが、いくつかの試行錯誤を経て、2001年頃にようやく整備され、その後の危機の終息に貢献しました。今年3月に米連邦準備理事会(FRB)が行った投資銀行に対する連銀窓口貸出制度の開放や、ベア・スターンズの救済は、大きな一歩であったと考えられます。ただし、中央銀行の貸出は本質的には流動性(Liquidity)対策であり、中央銀行が貸倒れリスクを取って金融機関のソルベンシー問題に対応することには、自ずと限界があると考えられます。ベア・スターンズの救済に当たっては、FRBはハイリスク資産の受け皿会社に対する期間10年の公定歩合貸出しを行っていますが、実際に融資が貸倒れとなれば、中央銀行ひいては通貨の信認に関わる問題となります。従って、ベア・スターンズ型の救済モデルは、あくまで財政資金による枠組みが整備されるまでのつなぎと位置づけるべきでしょう。財政資金による金融機関の救済には議会の承認が必要であり、さまざまな事態を想定した上で、早めの立法化が必要と考えられます。日本が2001年に整備した現行の危機対応の枠組みは、参考になると思います。
「予防的資本注入」の効果には疑問、ただしその手法には参考となる面も…
金融機関の救済は政治的にも難しいテーマであるが故に、追い詰められる前にプロアクティブな対応がとりにくい側面があります。日本の場合、1998年~1999年に行われた資本注入では、政策目的が明確化されず、十分な成果を挙げられませんでした。ただし、その後の業況回復により大手行の多くは公的資金を返済、株式の時価上昇によって国は利益を得ることができたため、結果的に財政への負担を抑えることができました。ゴーイング・コンサーン形式での金融機関救済では、出口戦略を明確にしておくことで納税者の理解を得やすくすることも可能と見られ、この点は今後の参考となると考えられます。
債務者のバランスシート調整の枠組み整備が必要
金融機関における損失の処理と資本再構築は、いわば債権者サイドのバランシート調整ですが、それを債務者サイドのバランスシート調整に上手く繋げていかないと、経済全体の調整を通じた資産価格の底入れは完了しないと考えられます。かつて、1980年代の中南米の債務危機の際にはブレイディ・プランが、1980年代後半から1990年代初頭にかけてのS&L危機の際にはRTC(Resolution Trust Corporation)が、その役割を果たしました。日本の不良債権処理においても、民事再生法の制定(2000年施行)、整理回収機構の役割強化(2001年)、産業再生機構の設立(2003年)など、債務者のバランスシート調整の枠組みが強化されたことが、事態の進展に大きく寄与しました。多数の住宅ローン債務を整理するためには、企業の債務整理とは異なった手法が必要となると考えられ、今後の議論の進展と政策の形成が注目されます。
小関広洋
エグゼクティブ・バイス・プレジデント
付録
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