西部戦線異状なし
1918年10月、彼が戦死した日はすべての戦線がきわめて静かで、目立った動きがなく、
司令部報告にはただ一言、こう綴られていた。
「西部戦線異状なし」。
彼は前に打伏して倒れ、寝ているかのように横たわっていた。
身体をひっくり返してみると、長く苦しんだ形跡はないようであり、その表情はあたかもこうした最期を迎えたことを喜んでいるかのような、穏やかなものであった。
こう結ばれるエーリッヒ・マリア・レマルクの1929年の代表作『西部戦線異状なし』は主人公の独白の形で戦争の恐ろしさを見事に描き出した作品です。レマルクはこう書いています。「最も冷静であったのは罪のない普通の人々だった。こうした人々は戦争、すなわち不幸であると知っていた。これに対して、裕福な層といえば浮き足立っていた」。この小説の舞台となった第一次世界大戦下のマジノ線(仏独国境における要塞線)からは、現代の、即席起爆装置(IED)がそこかしこに置かれ、コンピューターによって操縦される無人飛行物体が飛び回る混沌としたイラク戦線を思い描くことはできませんが、戦争で多くの人が命を落とすこと、そして、おそらくは戦争が無意味であることに変わりありません。戦いの舞台はレマルクが描いた西部戦線から中東に移りましたが、人間の政治的なぶつかり合いはそのままです。それぞれの側に神の加護があり、命を捧げる大義名分があります。しかし、塹壕の中の兵士達にとって、重要になるのは生き残ることと仲間意識です。レマルクは当時の強力な防衛線に広がる恐怖をこのように描いています。「僕達はその他に関するあらゆる感覚を失った。事実だけが正しく、意味のあるものだった。そしてまともな戦闘ブーツは手に入れることが難しかった」。それは今でも変わりないと考えられます。ただし、現代では手に入れることが難しいものは、防弾チョッキであり、装甲を施した軍用車となりました。それでも、兵士は命を落とし、それにより、さらなる悲しみが広がります。今、戦線にある兵士達が無事に任務を終え、再び米国の地をその足で踏みしめることができるよう、祈りたいと思います。
運用の世界でも、近年のイラク戦争でみられるように、戦局はさまざまに変化し、それに応じて戦略も変化してきました。しかし、少なくとも、偏っている上に怪しくなりつつある私の記憶からすると、PIMCOは2006年終盤以降、非常に明確な定義可能な戦闘計画を一貫して掲げてきました。
これまでのところ、この戦闘計画がかなり上手くいっていることは明らかですが、リスクがなかったわけではなく、不安がなかったわけでもありません。クレジット市場の勢いが止まらず、レバレッジを活用した投資家の安心感を揺るがす事態など起きえないとも思われた2007年前半、塹壕に釘付けにされたPIMCO部隊は自信喪失に苛まれ、そこかしこで舌打ちが聞かれたものです。リスク・テークの戦いのマジノ線にはLibor+0.25%などというもったいぶった金利が配給されましたが、頭を撃ち抜かれないようにするためには、あえてそれには手を出さないようにしていなくてはなりませんでした。しかし、その後、事態は動き始め、2007年6月にベア・スターンズ傘下のヘッジ・ファンドが破綻し、8月中旬には市場に恐怖が広がりました。そして、最初の破綻から1年後、今度はベア・スターンズ自体が破綻し、今でもその余波は残っています。私達は生き残ることができただけでなく、領土を拡大し、さらに前進することを視野に入れています。
しかし、部隊の指揮官としてはここで前進を一旦停止して、全面攻撃を仕掛けるべきか、それとも、手薄になった敵の正面だけでなく、側面についても慎重に分析すべきかをよく考える必要があります。PIMCO部隊の指揮官であるCIOは現在、私とモハメド・エラリアンが共同で務めていますが、エラリアンはこの数ヵ月間、先ほど紹介した戦略的戦闘計画リストのステップ3の段階で攻撃の一時中断を余儀なくさせるファットテールの可能性について、少なくとも検討してみることが必要と助言してきました。
エラリアンが指摘したファットテールの可能性とは、蓋然性は低いものの、最近の株価やクレジット市場スプレッドの楽観的な動きが先走りし過ぎている可能性です。市場が先走っているとすると、それは次の2つの判断に拠って立っていると考えられます。すなわち(1)価格が下げ止まり、銀行と投資銀行が資本基盤を強化する中、金融システムのレバレッジの解消はピークを越えようとしていること。そして、(2)以前であれば考えられなかった数多くの革新的な政策対応により、金融を基盤とする現代の経済を再度円滑に機能させるに十分な水準に流動性を回復させたことです。エラリアンの主張によると、こうした可能性を排除することはできないものの、こうした点はウォール街とロンドンの金融街「シティ」を中心とする変化であり、米国と英国の実体経済とは別問題であると考えられます。景気後退とそれが雇用と個人消費支出に与える悪影響は依然として懸念材料です。そして、今回の景気後退はこれまでのところ穏やかであり、依然として公式に認定されていませんが、以前から馴染みのあるありきたりの景気後退とは異なったものになる可能性があります。
その可能性に対し、PIMCOのインベストメント・コミッティー(IC)はメンバーの1人であるポール・マカリーの主張に耳を傾けてきました。マカリーと同じくケインジアンであり、金融システムを重視した経済学者ハイマン・ミンスキーの考え方を取り入れることで、マカリーのケインジアンとしての基礎はさらに強固なものになっています。マカリーがPIMCOのICにミンスキーの金融不安定化仮説を紹介したのは2002年のことであり、その後、マカリーが中心となって、戦略計画のステップ1、すなわちサブプライム・モーゲージの崩壊を回避するための計画の基盤が作られました。このミンスキーの著書とマカリーの推薦、そして、PIMCO全体の常識と内部調査分析により、数10億ドルに相当する損失を回避することができました。しかし、ここで問題になるのは、安定性を損なう住宅価格の下落スパイラルにより、個人消費支出に現れる実体経済の不安定さに対抗する必要があるか、それとも、市場による先走った楽観が再度、2007年の「8月の砲声」に姿を変える可能性があるかです。金融市場も、PIMCOも、住宅価格とそれが実体経済に与える副作用に対する備えは手薄です。ミンスキーとマカリーによる20世紀の金融危機の分析は、この点に対する歩哨の役割を担っているのということができるでしょう。
住宅価格がきわめて重要となる理由をミンスキーに尋ねたならば、彼は簡潔かつ率直に、住宅価格は潜在的な資産デフレの最前線にあるがゆえであると答えることでしょう。米国とその他一部の国の経済は現在、基本的に資産を基盤としており、また、安定しつつ、上昇方向に傾斜した物価に依存しています。このため、住宅という経済における主要な金融資産でデフレが発生すれば、深刻な被害を免れることはできません。ミンスキー曰く、そこで発生するデフレ的影響を抑え込まなくてはならず、それに失敗した場合には、戦いに負ける可能性があります。その場合、実体経済はモハメド・エラリアンが主張する通り、重篤な戦争神経症を患い、金融市場は再び下落に転じることになるでしょう。
ミンスキーであれ、PIMCOのマカリーやエラリアン、グロースであれ、そして、フェルドシュタイン氏やサマーズ氏、その他多くの人々も、過去12ヵ月間で10%下落し、今後1年間でさらに10%程度の下落が見込まれる住宅価格を下支えするために追加的な政策手段が必要であると主張することでしょう。しかし、それはFF金利の引き下げではありません。ここから先のFF金利引き下げには、メリットよりもデメリットの方が多くなるというのがPIMCOの見解です。マイナスの実質金利により、国内外の投資家は痛手を被っており、結果として、ドルの下落、きわめて高い商品価格、輸入インフレの一貫した上昇を招いています。FF金利引き下げよりも優れた選択肢となるのが、ドッド・フランク議会提案で想定されている民間モーゲージ債務の時価評価損失の計上制限と、市場金利を下回る政府の補助金付きローンとを組み合わせる方法です。この点については、次のように考えることができます。まず、住宅価格が40万ドルから30万ドルに下落することを容認し、担保割れした「ショートセール」による差押えを執行することができます。しかし、住宅保有者の負債を40万ドルから35万ドルに軽減し、FHA(連邦住宅局)を利用して4%の金利でローンの借り換えを認め、周辺地域の住宅価格を安定させることも可能です。共和党も民主党も、そしてPIMCOを含め、金融界でモーゲージ債務を保有する企業も、選択肢として、急落による市場の整理ではなく、その対極に位置する安定の方が優れているということで意見が一致するでしょう。そして、痛みをすべての参加者で分かち合わなくてはならない場合、安定が特に優れた選択肢になることに疑問の余地はありません。そして、これこそがミンスキーのいう資産を基盤としたデフレの影響を軽減する切り札となるものです。
また、英国モーゲージ債市場に対する1000億ドルに上るイングランド銀行のターム資金供給を始めとする、他の政策的取り組みや、米国の政府機関やFRBが同じような政策対応を取る可能性は、各国共通の目標である住宅価格をてこ入れするための頼もしい手段となります。住宅価格の下落が続き、さらに数兆ドルの損失が発生すれば、実体経済に深刻な悪影響を及ぼす恐れがあり、その場合、金融市場は悪化方向に転換する可能性があります。さしあたって、私達が戦っているこの投資戦線に異状はなく、戦争は終息に向かっていると思われます。しかし、戦闘計画のステップ3を実行し、最終的にステップ4の実践を模索する中、PIMCOは警戒を続けています。レマルクは第一次世界大戦下の兵士にこう語らせています。「僕らは塹壕に住み、戦っている。殺されないようにしているけれど、殺られてしまうこともある。それだけだ」。私達の仕事は彼らほど危険ではないものの、その結果は彼らと同じような確率論的なものとならざるをえません。そのため、PIMCO部隊は、銃弾を避けるべく頭を低くして、明日の戦いに備えています。
ウィリアム・H・グロース
マネージング・ディレクター
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