低下する中立金利を追いかけて
金融当局者や金融市場参加者は、金融政策を中立的か、緩和的、引き締め的の3つのうちいずれかに分類しようとする傾向にあります。また、インフレについては、目標水準と一致している(もしくは、バーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長が言うように「心地よい水準」など)、目標を上回っている、もしくは目標を下回っている、と表現します。そして、失業についても、完全雇用水準1にあるか、それを上回っている、もしくは下回っていると表現することを好みます。インフレが目標水準と一致しており、完全雇用が達成され、金融政策が中立的であれば、これこそ完全な均衡状態にあると言えましょう。
しかし、現実に経済がこうした状態になることは滅多にありません。インフレ率は目標水準と乖離し、失業率は景気サイクルに応じて上下します。したがって、中央銀行はインフレと景気との間のリスク・バランスを常に監視し、経済を均衡状態へ向かわせるため、多くの主要経済では翌日物銀行間金利を用いて、金融政策を緩和から引き締めへ、そしてまた緩和へと調整します。
しかし、金利はどの水準まで調整すればよいのでしょうか。また、金融政策が中立金利水準に対して緩和的か、引き締め的かは、どのように測定すべきでしょうか。そして、現在の中立金利水準はどこなのでしょうか。
そもそも中立とは
政策当局自身、長い間、こうした疑問を適切に表明できるような確たる基盤を確立できずにいました。中央銀行の行動に関しては、「パーティーが丁度盛り上がってきたところでお開きにする」であるとか、「流れに棹さす」と例えられることが往々にありましたが、どれも具体性を欠くものでした。ミルトン・フリードマンとアナ・シュワルツは歴史的名著 『Monetary History of the United States(邦題:米国貨幣史)』で、この点について次のように述べています。
(FRBの)政策は「流れに棹さすものである」とする見解をよく耳にするが、政策の中身自体に関して議論されるケースはきわめて少ない。(中略)その流れがどちらの方向に向いているのかを判断する方法について議論されることは事実上、全くなかった。(中略)また、流れに棹を差し始めるべき時期についても議論されることはなかった。(中略)しかし、具体性を欠くものの、どれだけの力で流れに棹さすのかについては、より多くの意見が聞かれた2。
こうした点をすべて変えたのが、今では広く有名になったテイラー・ルールです。スタンフォード大学の経済学教授であり、これまで何度か米国政府の要職3に就いた経験もあるジョン・テイラー氏は、1990年代初頭、インフレ率とインフレ目標水準の乖離(インフレーション・ギャップ)、および完全雇用が達成される潜在成長率と実際のGDP成長率の乖離(産出ギャップ)を基に、翌日物政策金利の水準を示す法則を提唱しました4。インフレ率が目標水準を上回っている場合、中央銀行は実質短期金利を引き上げ、成長率が潜在成長率を下回っている場合、実質短期金利を引き下げることになります。さまざまに絡み合った要因の数々が表面化すると、政策金利にもそれらが反映されることになります。テイラー教授はさらに、このルールがFRBの過去の政策判断を理解するための優れた基盤となると同時に、安定した経済成長を持続させるために、FRBが下すべき金融政策判断の指針になることを示そうとしました。
テイラー・ルールは、インフレ目標と潜在成長率に対する足元の経済活動の強さを基準に金融政策を調整すべきである、との直観を理論に昇華させました。加えて、政策判断プロセスにおいて、こうした要因がそれぞれどの程度の重要性を持つべきか、そのウェート配分も可能たらしめました。膨大な数の変数を利用する不透明かつ複雑な経済モデルと異なり、テイラー・ルールには主たる変数がわずか2つしかありません。このルールが浸透し、政策当局に対して強い影響力を持つようになった理由は、この簡潔さと的確さにあります。
テイラー・ルールの理論的および実務的な側面について、これまで活発に議論されてきたことは確かです。政策金利を決定するにあたって各変数に付与すべき最適なウェート(図表1のαやβといった係数)、完全雇用潜在成長率の測定方法、そしてこのルールを適用する際に政策当局が留保すべき裁量の水準に関して、見解の相違があります。
その中でも、特に重要になるのが、「中立」政策金利の概念と定量化です。図表1が示す通り、テイラー・ルールにおける中立金利とは、インフレ・ギャップと産出ギャップが共にゼロとなる場合に経済を均衡状態に維持する実質(インフレ調整後)政策金利です。テイラー教授が考案したこの方程式の原型では、「推奨される」実質政策金利がインフレ・ギャップと産出ギャップに基づいて変化するものの、「中立」政策金利は一定とされ、教授は米国における中立の実質政策金利を2%と想定しました5。この水準に基づくと、インフレ率が2%の目標水準となる場合、中立名目FF金利は4%になります。そして、経済が完全雇用状態にある場合に限って、推奨される政策金利は中立金利と等しくなります。
現在は中立でも、将来も中立というわけではない
しかし、中立の金利水準が一定という考えは正しいのでしょうか、それとも、中立金利は時間と共に変化するのでしょうか。また、中立金利が時間と共に変化するのであれば、何によって中立金利水準は変化するのでしょうか。
この疑問に答えるには、テイラー・ルール的な中立の政策金利に関する概念に内含されるきわめて重要な前提について、検証する必要があります。具体的に申し上げますと、テイラー・ルールでは短期実質政策金利と景気循環全体との間に不可分かつ安定的な関係が存在すると想定しています。これを示しているのが、次の図表
しかしながら、現実にマクロ経済面の均衡を左右する金利が政策金利でないことは誰もが知るところです。翌日物金利そのものを基準として経済的判断を下す消費者はほぼ存在せず、企業にしてもごくわずかでしかありません。実際に総需要に影響を与え、経済の均衡を維持するために引き上げ・引き下げが必要になるのは、「経済全体の資本コスト」であり、このコストが家計や企業向け融資金利や株式のバリュエーションに反映されているのです。
図表2の右側が示すように、テイラー・ルールの原型においては、経済全体の資本コストと短期政策金利の間の関係が一定と想定されていました。つまり、政策金利の変化は1対1で資本コストの変動に反映されるはずと想定されていたわけです。しかし、この一連のリスク・プレミアムが安定していない場合、たとえ中立的な資本コストが変わらなくても、中立政策金利は変化する可能性があります。それは以下の論理展開により実証されます。
中央銀行の対応が遅れ、金融環境がさらに悪化する場合、中央銀行がいくら金利を引き下げても、低下する中立金利に追いつくことができず、金融面から景気を刺激するために必要な金利水準に最後まで辿り着けない可能性があります。
この懸念は単なる抽象論ではありません。1990年代初頭の日本では、不動産市場と株式市場の大幅な下落と、それに伴う金融システム危機への日本銀行の対応が後手に回りました。そのため、政策金利をいくら引き下げても、金融面からの景気刺激が可能になる金利水準に到達することができませんでした。理論的には、中立金利はマイナスになる可能性があります。そのため、中立金利があまり大幅に低下すると、中央銀行は中立に到達できない可能性があります。この概念を示したのが、次の図表3です。
結果として、日本は長期にわたり、量的緩和によって金融システムに注入する流動性を増やし続けるといった、非伝統的な手法を用いざるを得ませんでした。当時は円の価値を自動的に下落させるチップを円紙幣に埋め込み、それによりマイナスの名目金利を作り出し、消費者の消費意欲を刺激するという案すらありました。
中央銀行はその教訓を忘れていません。政策金利の引き下げが中立金利の動きに後れを取ってはなりません。
金融環境と中立金利に関するバーナンキ議長の見解
バーナンキFRB議長と連邦公開市場委員会(FOMC)が中立金利を推計するにあたって、金融環境の影響を考慮していることは明らかです。ワシントン入りするまで、バーナンキ議長は学者として、クレジット・チャネルと「フィナンシャル・アクセレレーター」効果の重要性に関するさまざまな論文を発表してきました。その後、現在の金融市場の混乱のかなり以前、2005年にFRB理事として講演し、経済予測およびFRBの「金融政策の伝達メカニズムに関する理解」がFOMCの金利判断の指針となっていることを強調しています。当時、バーナンキ氏はこう述べています。
「私の見解では、金融政策が常に目指すべき固定的なFF金利目標水準の存在を推測することは有益ではない。(中略)FF金利が適正かつ持続可能な水準に達するのは、第一に、見通しが当委員会の経済的目標と一致し、第二に、金利の期間構成の形状がほぼ正常となる場合である。(中略)中立金利水準は現在および将来予想される経済状況の双方に応じて決まる。したがって、中立金利水準とは一定、もしくは固定的な目標ではなく、経済と経済予測の進展に応じて変化するものである6」。
バーナンキ氏は政策金利を設定する際に考慮される要因として、「金利の期間構成の形状」に触れていますが、これは当時の金融環境におけるアノマリーとして最も広く認識されていた、FF金利が上昇する中での米国のイールドカーブのフラット化にさりげなく言及したものでした。
2007年夏以降、金融市場が混乱に陥る中、中立の政策金利に最も顕著に影響を与えた金融環境は、図表4に示すクレジット・リスク・プレミアムの動向でした。2007年12月の議事録をみると、FOMCは「信用が一層逼迫し、金融市場環境が悪化している点を鑑みると、金融政策のスタンスは現在、幾分引き締め的になっていると考えられる」と判断しており、中立金利がシフトしたことを認めています。
それだけではありません。FRBは政策当局の対応が大幅に後手に回った日本の失敗を繰り返さないことを、何よりも重視しました。FRBのミシュキン理事が先日の発言(脚注7で全体を紹介)のように、非線形の悪化リスクとファットテールの帰結に至る可能性があるということは、迅速、明確かつ柔軟な金利政策が必要であることを示しており、その中には、金融環境が悪化する局面における、急ピッチでの利下げも含まれています。
「金融市場が混乱している局面で妥当となる金融政策は、市場が正常に機能している際の金融政策とは大きく異なると考えられる。金融市場に重大な問題が生じている場合、リスク管理に対する体系的アプローチの一環として、金融市場に関する最新の情報がマクロ経済面に与える影響に対し、政策当局は予防的に対応することが不可欠であり、場合によっては、悪循環に陥る可能性を低下させるため、決然たる行動が必要になる。また、中央銀行は金融市場の混乱がもたらす悪化リスクを確実に軽減させる方向に動く際だけでなく、金融市場の回復やインフレ・リスクの上昇に対応して、そうした保険的措置の部分的な撤回に備える際にも、柔軟性を示すこと、すなわち平時よりも惰性の力を軽減させることが必要になる」。
ミシュキン理事は「ここで概要を示した枠組みは最近のFRBの政策判断の根拠と今後の政策の行方を理解するために有効である」と述べています。
それは間違いありません。それから2週間と経たないうちに、世界の株式市場が急落し、米国市場も寄り付きから大幅に下げると見込まれたため、バーナンキ議長はFOMC委員を招集して電話会議を開催し、定例会合を待たずにFF金利を0.75%引き下げることに同意を得たのでした。さらに、この翌週の1月30日に開催された定例のFOMCでも、0.50%の追加利下げが実施されました。先日、公表されたこのFOMCの議事録より、複数の委員から「特に懸念される点として、深刻な悪循環に陥る可能性、すなわち、信用環境の逼迫が投資と個人消費を抑制し、それが更なる信用環境の逼迫につながる可能性が指摘された」ことがわかります。
FRBはこの金融とマクロ経済の破滅的な悪循環に対する「保険」を提供する意思を明確に示したといえます。
1%の教訓最近のさまざまな出来事からは、バーナンキ議長率いるFRBが、(1)金融政策が経済全体に伝達されるプロセスで、きわめて重要な役割を果たす要因として、金融環境を重視していること、そして(2)ファットテールの危機的シナリオを回避するために、異例の速さで利下げを進めていることが分かります。後者から分かることは、FRBの利下げ性向は利上げ性向と本質的に非対称であること、すなわち利下げは利上げよりも速いペースになる可能性が高いということです。
しかし、この非対称性が行き過ぎると、資産バブルが発生する確率が高くなります。金融市場は、経済が悪化する局面ではFRBが提供するセーフティネットが存在することを認識するだけでなく、危機が去った後も、長期にわたり超過流動性の後押しを得られることにも気づくでしょう。住宅バブルは1%のFF金利がもたらした教訓であると批評家は指摘しています。
しかし、この「1%の教訓」とは、FRBが前回の利下げ局面で金利を下げすぎたということでしょうか、それとも、その後の利上げ局面でFRBはより速いペースで金利を引き上げるべきであったということでしょうか。FRBは後者を支持していることが窺えます。上記のミシュキン理事の発言の最後の部分はこの点で特に注目されます。具体的にいうと、FRBは「金融市場の回復やインフレ・リスクの上昇に対応して、そうした保険を部分的に撤回することに備える」ことを含め、明確な姿勢を取るべきと主張している部分です(強調部分は筆者)。薬に例えると、金融市場が投与された薬に反応すれば、投薬量を減らし、患者が中毒になるのを防ぐべきということです。
2007年10月のFOMCでFRBがトーンを変化させた背景には、こうした視点があったのではないでしょうか。この時、FRBはFF金利を0.25%引き下げる一方、その声明は経済に対するリスクを「均衡」していると見ていることを示す表現に戻されました。一般的に、これはFRBӔ